Kyoto tsu

京都通

  • 2010/10/30

第202回 本能寺と塔頭『法華経の教えを守り伝える人の絆』

不思議なイチョウの巨木があるんどす

若者が行き交う寺町通りに面した立派な総門をくぐると、先ほどの喧噪が嘘のように、静かな境内が広がっています。
ここは法華宗大本山の本能寺。
実は以前、京都通第176回でもご紹介しています。

第176回「本能寺」

耐震工事中(~2013年まで)の本堂横を奥へ進むと、南東の角に7階建てのビルにも匹敵する高さのイチョウの木がそびえています。
禁門の変のときには、長州藩がこの木を目印にして大砲を撃ち込んだとか。

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これから秋が深まると、黄色く色付いたイチョウの葉が境内一面に敷き詰められて、幻想的な風情を漂わせます。
このイチョウの木には、とても不思議な伝説があります。
江戸後期の天明の大火の際、イチョウの木から水が噴き出して、木の周囲の建物は延焼を免れ、木の下に避難した近くの人々も助かったというのです。
このことから「火伏せのイチョウ」と呼ばれるようになり、2004年には京都市の保存樹に指定されています。
実際に木が水を噴くとは考えにくいことですが、イチョウの葉は肉厚で水分を多く含んでいるので、防火林として街路樹に用いられることも多いそうで、なるほどと思わせる話ですね。

「敵は本能寺にあり」という言葉で有名な本能寺ですが、そもそもは室町時代の1415年に日隆(にちりゅう)上人によって油小路高辻に建立され、本応寺(ほんのうじ)と号したのが始まりです。
同寺は安土桃山時代に種子島に布教していた関係で、鉄砲や火薬の入手に関連して戦国大名とのつながりが強まり、30あまりの塔頭(たっちゅう)が並ぶ大伽藍を誇っていました。
城のように防御にすぐれた寺だったので、信長も京都滞在の宿舎に選んだのでしょうか。

しかし1582年、明智光秀の奇襲を受けて自刃した織田信長とともに、本能寺は焼け落ちます。
その後1592年に伽藍の再建が行われますが、皮肉なことに上棟式の当日に豊臣秀吉の都市計画により、寺町通りに面した現在地への移転命令が出されたのです。

塔頭ってどんなとこか知ったはりますか

本能寺は創建以来何度も火災に見舞われ、寺の歴史は火災と再建の歴史といえるほど。
江戸初期には92の塔頭があり、御池通りと京都市役所を含む約1万坪という広大な敷地だったそうですが、天明の大火(1788年)と、幕末の禁門の変による元治の大火(1864年)で、2度も諸堂を失い、次第に規模を縮小していきました。
こうしたことから、本能寺では「能」の字の右側に2つもある「ヒ(火)」を嫌い、「去」の字を使っています。
(※システムの仕様で表示できない文字のため、本文中では「能」の字を使用しています。)

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現在の本堂は、昭和3年(1928)に再建されたものですが、1799年に書かれた絵図を見ると、本堂を囲むように26の塔頭が並んでいます。
そのうち龍雲院、源妙院、本行院、高俊院、定性院、蓮承院、恵昇院が現在も残っています。

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塔頭とは大きな寺院の境内に立つ小さな寺のことで、宿坊の役割も果たします。
本能寺は法華宗の本山ですので、その寺務は膨大で少人数ではとても処理しきれません。
そこで、7つの塔頭の住職が寺務職員として本能寺の寺務を分担して支えているのです。

塔頭の日常について、高俊院の住職・久野晃顕さんに教えていただきました。
毎朝6時に本能寺本堂に集まって約1時間半のお勤め。
その後寺務所でその日の打ち合わせ、さらに自分の坊に戻ってお勤めをします。
それから朝食、掃除などを済ませてその日の仕事にかかります。

仕事は各坊に割り当てられている檀家に月回向(つきえこう)に出かけたり、朱印帳を書いたり、行事の準備など多種多彩。
毎月1日の「講」や華道の研修会など、行事はひっきりなしにあり、全国から僧侶が集まる大きな行事も年3回あります。
「畏れ多いことですが、塔頭の住職として私よりはるかに位の高い方々と間近に接することができ、気持ちが引き締まります」と話してくださいました。

塔頭にもそれぞれ個性があるんどすえ

牡丹に縁のある宿坊の恵昇院、雅楽の楽器が残されている定性院など、それぞれの塔頭には独自の歴史があり、特色があります。
火伏せのイチョウのすぐ隣にある龍雲院には、天明の大火以前の門と建物の一部が残されています。

高俊院では江戸時代前期に第4世・日甫(にちほ)上人が出て、華道の流祖となりました。
日甫上人は2世池坊専好のもとで修行をした後、江戸へ。
紀州徳川藩邸などへ出入りし、忠臣蔵で有名な吉良上野介の屋敷でも花を生けたそうです。
晩年は京へ戻り、宮中や公家社会で活躍しました。
日甫上人の花は法華経の教えに従うかのように、円を描くように生けるのが特徴で、「華道本能寺」として現在も受継がれています。

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塔頭の住職は本能寺の貫首の指名によるもので、世襲ではありません。
久野住職は高俊院に来て3年目、35歳の若くてエネルギッシュなお坊さんです。
「ご縁によって私が選ばれ、本山の宮仕をするために、ここにいるのだと考えています」と話してくださいました。
塔頭同士の交流や助け合いももちろんあって、例えば高俊院の住職が所用などで、どうしても役目を果たせない場合は、龍雲院の住職が代わりに行うというような決まりもあるそうです。
互いの家族の交流も盛んで、ここには昔ながらのご近所付き合いが残っています。

「本能寺は法華経の教えを広める霊場ですので、全国から修行僧が集まります。私たちはその修行の先生役もこなさねばならず、結構なプレッシャーなんですよ」と久野住職。
5度の焼失、7度の建立を乗り越えて、何百年にもわたって教えを伝えてきた本能寺と塔頭。
強い絆で結ばれた人々の想いが、数々の困難を乗り越えるエネルギーになってきたのだと感じられました。

取材協力 : 本能寺
〒604-8091 京都市中京区寺町通御池下ル下本能寺前町522
電話番号 : (075)231-5335

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