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京都通

  • 2017/10/21

第327回 清閑寺『小督局の悲恋物語と幕末の歴史が伝わる古刹』

都を眼下に望める京の入り口なんどすえ

今から約1200年前、延暦21年(802年)に紹継(しょうけい)法師によって開創された京都・東山に建つ「清閑寺」。
盛衰を繰り返し、一條天皇の頃に播磨守佐伯公行(いよのかみさえききんゆき)が鎮護国家の道場として、法華三昧堂や宝塔などを建立し、十一面千手観音菩薩をご本尊として、ここに初めて清閑寺と号されました。

かつては清水寺よりも大きな寺院でしたが、応仁の乱の戦火によって荒廃し、現在見られるのは慶長年間(1596~1614年)に建造された本堂と、享保15年(1730年)に再建された鐘楼のみ。
また、菅原道真公が梅の木から作ったと伝わるご本尊は毎年8月の第2日曜に特別公開され、この日はどなたでも拝むことができます。

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ここは清水寺の奥の小道を10分ほど進んだところにあり、山号の「歌中山(うたのなかやま)」は、清水寺から清閑寺に続くこの小道の名称から付けられました。
その昔、清閑寺の僧・真燕(しんえん)がある夕暮れの日、門の外を歩く人々を見て佇んでいると、一人の美しい女性に目を奪われました。話をするきっかけがつかめず、思わず知らぬふりをして、清水寺への道を尋ねると、その女性は「見るにだに 迷ふ心の はかなくて 誠の道を いかで知るべき」と言い残して姿を消したのだそう。
俗信を戒めたその女性は清閑寺のご本尊の化身だとも言われており、この話から「歌の中山」という地名が起こり、ここで多くの歌人が歌を詠んだのです。

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本堂前方には石垣に囲まれた大きな石があり、そこから西方を眺めると、山の谷間に京都タワーや東本願寺をはじめ京都市街地の風景がまるで扇を開けたように見えます。
それが扇の要の位置にあたるとして、「要石(かなめいし)」と呼ばれています。
かつての旅人たちは大津から山科を経て、ここで初めて京都の街並みを眼下に望むことで、心をホッとなでおろしたのでしょう。
いつの頃からか、この要石に願いをかけると叶うと伝えられ、今ではパワースポットとして知られています。

小督局の切ない恋物語が伝わるんやなぁ

清閑寺は悲恋の物語が伝わる地でもあります。
藤原成範の娘として生まれた小督局(こごうのつぼね)は宮中一の美女と称され、また琴の名手でもありました。
小督局は平清盛の次女で、高倉天皇の中宮・徳子(建礼門院)に使える女官でしたが、やがて高倉天皇に寵愛されるようになりました。

実は、それまでは平清盛の長女の婿にあたる冷泉大納言・隆房と恋仲にあり、婿2人を取られたことに怒った平清盛は小督局を宮中から追い出そうとします。
高倉天皇に迷惑がかかることを恐れた彼女は、一度は嵯峨野の山奥に隠れますが、天皇の側近によって見つけ出され、再び天皇と宮中でしのび逢う日々が始まります。
そして、後に坊門院範子と呼ばれる範子内親王を産むことに。

しかし、徳子よりも先に子供を産んだ小督局は、清盛の大きな怒りに触れ、ついに宮中を追放され、清閑寺で尼にさせられたのです。
高倉天皇は深く心を痛め、養和元年(281年)、21歳の若さでこの世を去り、「小督のもとで葬ってほしい」という遺言通り、清閑寺で葬儀が行われ、この寺に埋葬されました。
清閑寺の背後の山には高倉天皇とその前の代の六條天皇の御陵があり、その傍らには小督局のお墓が建てられています。

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また、清閑寺の境内には2基の宝篋印塔があり、小督局と清閑寺を創建した紹継法師の供養塔と伝えられています。
その横には小督桜が植えられおり、春には優しい風合いの桜が境内を彩ります。
ちなみに、高倉天皇は教養があり、イケメンだったため、歴女の間では人気が高く、お墓参りに訪れるファンも多いそうです。

深紅に染まる自然の風景を味わっておくれやす

清閑寺にはかつて「郭公亭(かっこうてい)」という茶室がありました。
これは安政5年(1858年)、清水寺成就院の住職で尊皇攘夷派の月照上人が、西郷隆盛と密かに会い、都落ちの計画をたてた茶室として知られています。水戸藩の密使降下に尽力し、幕府から狙われていた月照上人は西郷の手引きにより薩摩に逃れますが、薩摩藩では受け入れを拒否され、2人は死を覚悟して錦江湾に入水しました。そこで、月照上人は帰らぬ人となりますが、西郷は奇跡的に助かるのです。

郭公亭は昭和初期に改修され、たびたびお茶会が開かれていましたが、平成3年(1991年)、老朽化により解体されました。今では小さな木戸が残り、その前に「大西郷月照王政復古謀議旧址」の石碑が建てられています。
来年から西郷隆盛を主人公とした大河ドラマ「西郷どん」が始まると、再びこの地が注目されることでしょう。

そのほか、与謝野鉄幹の父であり、西本願寺の僧で歌人の礼巌は妻を亡くした冬に清閑寺に隠棲し、3万首近くの歌を詠んだといわれています。
また、フランスから帰国後、清閑寺を訪れた洋画家の黒田清輝は、寺の僧が語った小督悲恋の物語を聞いたとき、現実から離脱した不思議な感動に襲われたそうです。
黒田氏は入念な制作過程と習作の数々を経て、寺周辺の風景や僧の話す様子を描いた「昔語り」を完成させました。惜しくもこの絵は焼失し、現物を見ることはできませんが、完成絵に近い「構図II」や多くのデッサンが残されています。

また、ここは「清閑寺窯発祥の地」であり、諸説ありますが、江戸時代初期に清閑寺の僧・宗伯(そうはく)が寺内に窯を築いたのが京陶器の起源だといわれています。
名工・野々村仁清が宗伯の門に入り、これが清閑寺焼(別名・音羽焼とも)と呼ばれ、後に清水焼、続いて粟田焼へと発展していきました。

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さまざまな人を引き寄せ、数々の歴史を紡いできた清閑寺。普段は落ち着きのあるお寺ですが、秋が深まり、鮮やかな紅葉が境内を包む頃には多くの人で賑わいます。
言葉を失うほどの深紅に彩られたこの光景は、一度訪れると毎年見たくなる、そんな魅力があります。

取材協力 : 清閑寺
〒605-0922 京都市東山区清閑寺歌ノ中山3
電話番号 : 075-561-7292
FAX番号 : 075-541-8529

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