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京都通

  • 2018/2/17

第331回 本法寺『本阿弥光悦、長谷川等伯とゆかりの深い洛中の御寺』

「なべかむり日親さん」が建てはったんどす

京都御所の北西に位置する本法寺は、室町時代に活躍した日親上人によって築かれた日蓮宗の本山です。

周囲には妙顕寺や妙蓮寺、宝鏡寺などが点在するほか、表千家や裏千家、茶道の道具屋さんなど茶道関係の建物が軒を連ねています。

本法寺の開創時期や場所については諸説ありますが、永享8年(1436年)に東洞院綾小路に造られた、仏教を広めるための「弘通所(ぐずうしょ)」が始まりとされています。

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日親上人は世の中が乱れていることを危惧し、法華経の信仰と政治や治国の関係を説く「立正治国論」を著し、時の将軍・足利義教に直訴しました。

義教といえばその治世を万人恐怖と称された人物です。義教を怒らせてしまった日親上人は投獄された上、寺を壊され、頭から灼熱の鍋を被せられるなど数々の拷問を受けました。それでも決して屈することなく信念を貫いた日親上人が、「なべかむり日親」といわれたのはこの法難が所以となっています。

このとき、獄中で出会ったのが、江戸時代初期において日本文化に大きな影響を与えた芸術家・本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)の曾祖父にあたる本阿弥清信でした。以降、清信は日親上人に深く帰依し、本阿弥家は本法寺の大檀家になったのです。

その後、本法寺は何度か場所を移っています。天文5年(1536年)の法難によって一時は都を追われ、大阪の堺に避難しますが、京都の一条戻橋あたりに再興。さらに、豊臣秀吉の都市区画整備によって、天正15年(1587年)に現在の地である堀川寺之内に移りました。

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そのとき、本阿弥光二・光悦親子が私財を投じて再建に協力し、本法寺は京都の町に一大栄華を誇りました。しかし、天明8年(1788年)に襲った大火で堂宇のほとんどを焼失。現在見ることのできる堂宇は江戸時代後期に再建されたもので、本堂、開山堂、多宝塔、仁王門、庫裡、書院などすべてが京都府の有形文化財に指定されています。

春には仁王門からの参道や、本堂、多宝塔などが並ぶ境内一体を桜が美しく彩ります。
また、本堂の前には光悦が植えたと伝わる松があり、隣には安土桃山時代を代表する絵師、長谷川等伯の銅像が並んでいます。

等伯も本法寺ととても縁が深いのですが、その話は後ほどご説明することにいたしましょう。

本阿弥光悦さんの美術品やお庭もありますえ

本法寺には光悦が手掛けた和歌や書状をはじめ、多くの美術品が残されています。中でも最も有名なものの一つに 「花唐草文螺鈿経箱(はなからくさもんらでんきょうばこ)」(重文)があり、この絵柄は本法寺のリーフレットや御朱印帳にもあしらわれています。経箱全体が漆で塗られ、螺鈿によって蓋の甲板中央に「法華経」の題字と、そこから伸びる花唐草文が表現されています。

この経箱は平安時代前期に活躍した能書家で、和様書道の基礎を築いた小野道風が書いた「紫紙金字法華経」(重文)を納めるために造られたもので、蓋の側面が欠失していたことから、平成14年(2002年)に修復されました。

書院前には「三巴の庭(みつどもえのにわ)」があり、こちらも光悦の作といわれています。

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室町時代の書院風枯山水の影響と安土桃山時代の芽生えを感じる名庭で、昭和47年(1972年)に修復され、昭和61年(1986年)に国指定名勝となりました。

広さは約200坪あり、書院の東側から南側へ鍵型になっており、三カ所の築山(石を囲み、盛り上げてある部分)を三巴の紋に組み合わせてあります。今は巴の形が分かりづらくなっていますが、巴の形は「この世は因果応報だ」ということを表しています。また、右手奥には石組の枯瀧(かれたき)が配され、縦縞紋様の青石によって流れ落ちる水が表現されており、水はなくとも涼やかな音が聞こえてくるようです。

また、半円を2つ組み合わせた円形の石と、10本の切石で囲んだ十角形の蓮池があり、それぞれ「日」と「蓮」を表しています。お庭の中央に「日蓮」の字が象られているとは斬新でありながらも、光悦の信心深さが伝わってきます。その奥には大きな灯篭があり、少し黒くなっていますが、これは天明の大火を乗り越えた名残で、まさに歴史の証人ともいえます。

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さらに、三巴の庭の修復事業に伴い、涅槃会館の前に作庭されたのが「十(つなし)の庭」です。庭には九つの石があり、あと一つの石(意志)は見る人の心の中に存在するということで、この名が付けられました。「つなし」と読ませるのは数字を数えるとき、1から9まではひとつ、ふたつと「つ」が付きますが、10(とお)は「つ」が付きません。このことから、10は「つがない」で、「つなし」とされているのです。

長谷川等伯さんの「佛涅槃図」も見ておくれやす

安土桃山時代に活躍した絵師・長谷川等伯も本法寺と縁の深い芸術家として知られています。等伯は能登国(現在の石川県)で生まれ、染物業を営む長谷川家の養子となり、故郷の七尾を中心に絵師として活動していました。等伯が33歳のとき、養父母が相次いで亡くなったのをきっかけに拠点を京都へ移し、生家の菩提寺の本山である本法寺の塔頭・教行院に住み、制作活動に励みました。

天正17年(1589年)、51歳の等伯は大徳寺の三門楼上壁画と三玄院障壁画を描き、翌年には御所の障壁画制作を依頼されるほど、名の知れた絵師となり、長谷川派を築いていきますが、対立する狩野派の妨害に遭うことも多々ありました。それでも、豊臣秀吉から祥雲寺障壁画(現智積院)の制作を依頼されるなど、画壇における地位を確固たるものしていくのです。しかし、等伯が52歳のとき、親交が深かった千利休が秀吉の命によって自刃し、55歳のときには制作の片腕として最も信頼を寄せていた息子の久蔵を26歳という若さで失ってしまいます。

寺伝によると、等伯は悲しみに暮れ、絵筆を捨て描くのを辞めようとしますが、本法寺十世・日通上人から「絵を辞めれば、あの世にいっても永遠に浮かばれない。もう一度志をもって描きなさい」と言われたことで再び立ち上がったとされています。

そして、久蔵の七回忌の供養に描いたのが、本法寺に伝わる「佛涅槃図」(重文)なのです。

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この作品は京都三大涅槃図の一つに数えられ、華やかな描表具を含めると高さ10メートルにも及びます。表具の裏には日蓮聖人以下の諸祖師や本法寺の歴代住職、祖父母、養父母、そして久蔵などの供養銘が記されています。画の中にはキジや犬など動物までもが悲しんでいる姿が描かれ、自分を残して先立った人々への哀悼と供養の想いの想いが伝わってきます。

さらに、等伯は本堂の天井画や客殿の障壁画を描きましたが、これらは天明の大火で焼失してしまいました。しかし、幸いにも経蔵と宝蔵が残り、そこに所蔵されていた「佛涅槃図」をはじめとする等伯の作品は奇跡的に焼失を免れたのです。

この「佛涅槃図」は通常は原寸大の複製を展示していますが、毎年3月14日~4月15日の「春季特別寺宝展」では真筆(しんぴつ/その人が本当に描いたもの)を拝観することができます。ほかにも今年は光悦作の「翁面」や狩野派の初代・狩野正信筆「日親上人像」(重文)など数々の寺宝が展示されます。是非、桜の季節に合わせて、江戸の華やかな文化に触れてみてはいかがでしょうか。

※「春季特別寺宝展」の展示内容は入れ替わりがあります。あらかじめご了承ください。

取材協力 : 本法寺
〒602-0061 京都市上京区小川通寺之内上ル本法寺前町617
電話番号 : 075-441-7997
FAX番号 : 075-441-8100

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