Kyoto tsu

京都通

  • 2018/7/14

第336回 大蓮寺『大きな蓮に心が和む、安産祈願のお寺』

洛陽三十三所観音霊場にもなっているんどす

京都の中心街から平安神宮に向かう途中、お寺が立ち並ぶ一角に浄土宗の寺院「大蓮寺」があります。
正式名称を「引接山 極楽院 大蓮寺(いんじょうざん ごくらくいん だいれんじ)」といい、かつては五条若宮(五条西洞院あたり)にありましたが、五条通の拡張に伴い、昭和20年に現在の東山二条に移りました。
大蓮寺は昔から「安産祈願の寺」として親しまれており、その由来は本堂に安置されている阿弥陀如来像にあります。

時は平安時代。
比叡山の念仏堂にこもり、念仏三昧の修行をしていた慈覚大師(じかくだいし)は晩年、一躯(いっく)の阿弥陀如来像を彫っていました。
仕上げに掛かっていると、夢の中で阿弥陀如来様が現れ、「比叡山から京都へ下りて、女人の厄難(お産の苦しみ)を救いたい」とお告げになりました。
そこで、そのお告げに従い、女人禁制だった比叡山を下りて、真如堂にその阿弥陀如来像を安置。すると、たちまち京都の女性たちから信仰を集め、多くの女性たちの出産の苦しみを救われたのです。
その後、応仁の乱で真如堂は荒廃し、阿弥陀如来像は行方知れずになっていました。

それから時を経て慶長5年(1600年)、深誉上人(じんよしょうにん)が伏見の町を歩いていたときのこと。
一軒の荒れたお堂に金色に輝く阿弥陀如来像を発見し、誰もこの阿弥陀如来像をお守りしていないことに心を痛めた上人は大蓮寺を建立し、安置したのです。

一方、真如堂が復興した元禄年間の頃、失った阿弥陀如来像が大蓮寺にあることが判明すると、幕府から阿弥陀如来像を真如堂へ返還するよう命じられました。
残念に思った上人が21日間念仏を称え続けると、なんと成満の21日目の朝、阿弥陀如来像が真っ二つに分かれていたのです。
そして、大蓮寺と真如堂で一体ずつ安置することになったと伝えられています。
さらに慶安3年(1650年)、後光明天皇の皇后が懐妊され、当時の二世霊光和尚に安産祈願の勅命が下って以来、現在にいたるまで、大蓮寺は安産の寺として親しまれるようになったのです。

また、阿弥陀如来像のほか、多くの仏像が所蔵されています。
明治時代まで、現在の八坂神社は「祇園社感神院」という寺名で、薬師如来をご本尊とする勧慶寺がありました。
しかし、明治元年(1868年)の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)によって廃寺となった際、すべての仏像や仏具は、祇園社とご縁のあった大蓮寺に移されたのです。
祇園社のご本尊で重要文化財の薬師如来や洛陽十二神中の夜叉神明王(やしゃじんみょうおう)などは非公開ですが、大蓮寺が京都市内の観音様を巡る「洛陽三十三所観音霊場」第八番札所に定められていることから、「十一面観音菩薩」はいつでも拝観していただけます。
スラリとした立ち姿で、そのお顔にはかすかに微笑みを称えた、なんとも穏やかな印象の菩薩様です。

京の町を駆け抜けた「走り坊さん」がいてはったんや

明治から大正時代にかけて、大蓮寺には京の人々から「走り坊さん」と親しまれた一人のお坊さんが実在しました。
明治5年(1872年)大阪府泉州の生まれで、幼い頃から体が弱かったため、お寺で修行して身体を鍛えようと、同郷の住職・十七世芳井玄定上人を頼って、18歳のときに大蓮寺に弟子入りしました。
出家後の名前は籏玄教(はたげんきょう)といいましたが、普段は幼名の新田常治(つねじ)から、「常さん」と呼ばれていました。
常さんは僧侶の資格はありませんでしたが、小僧として掃除や住職のお使いに日々励んでいました。

明治中後期になると、大蓮寺には安産の守護符と御腹帯を求め、女性の参拝が増えましたが、交通機関が発達しておらず、参詣が困難な人のために、常さんは守護符を届けるようになりました。
ひと月に何百軒の家をまわり、さらに月3回は朝4時にお寺を出て、大文字から比叡山、鞍馬山を抜け、愛宕山で火の用心の祈願をし、夕方には戻ってきたといいます。
病弱を克服したどころか、常人以上の健脚の持ち主となった常さんは、やがて「走り坊さん」と呼ばれるようになったのです。

そんな走り坊さんのエピソードも数々伝わっており、
「身長は143cmで、いつも電車は子供料金を請求されていた」
「大食漢・大酒豪で、各家で日本酒をもらい、お寺に帰るころには一斗(18リットル)近く飲んでいた」
「生涯独身を貫き、街で女性に声を掛けられても、恥ずかしくて『はい、さようなら』と立ち去ってしまうほどだった」
などなど。
体の前後に「大蓮寺」と書かれた頭陀袋(ずだぶくろ)を提げているのがお決まりのスタイルで、宣伝効果も相まって、当時はお寺に安産祈願をする人も増えたのだそうです。

この頭陀袋、いただいたお供え物を入れていたのですが、すべて貧しい人に渡してしまい、お寺に戻ったときにはいつも袋の中は空っぽでした。
このことは、走り坊さんが流行性感冒によって47歳で亡くなった際、葬儀の参列者があまりに多かったことで、初めてお寺の知るところとなったのです。

当時の朝日新聞京都版には
「飛ぶがごとく 走るがごとく 楽中洛外を走って走って走り通した 大蓮寺の走り坊さん 雨が降ろうが 風が吹こうが 彼の走る姿をみない事はなかった」
と記され、「僧侶のかがみ」たる走り坊さんの行動は「今一休」と評されました。
訃報も新聞に掲載され、その記事の大きさをから、いかに京の人々に愛されていたかが伝わってきます。

蓮に包まれた極楽浄土の世界を感じておくれやす

大蓮寺といえばその名の通り、初夏から夏にかけて、境内では多種多様な蓮の花が目を楽しませてくれます。
もともとは先々代が趣味で育てられていたのを受け継ぐ形で、現住職が15年ほど前から蓮の種類を増やし、端正こめて育てられています。
今では白や赤、黄、ピンクなど30数品種、60~70鉢の蓮が6月から境内を埋め尽くし、一番の見頃は7月いっぱいとなっています。
蓮は3日間花を咲かせますが、初日、2日目、3日目と少しずつ開き方も変わり、また朝早く開いて、昼過ぎにはしぼみ始めるので、ご覧いただくには午前中がおすすめです。

数ある蓮の中でも、花びらが大きく、数種の色が混じったカラフルな「ミセス・スローカム」という品種が人気です。
1日目はピンクの花びらにわずかに黄色がさし、2日目になるとピンクと黄色、3日目には黄色にピンクがわずかに残るというように、開花の経過とともに花の色が変化していくのが特徴です。

ほかにも、薄紅色の花びらが凛と美しい「紹興紅蓮(しょうこうこうれん)」、花びらの数が何千枚にもなる「妙蓮(みょうれん)」、小ぶりで清楚なたたずまいの「小舞妃(しょうまいひ)」、白い花びらに赤の縁取りが美しい「大酒錦(たいせいきん/だいしゅきん)」、源氏物語の登場人物・藤壺から名前が付けられた「藤壺蓮(ふじつぼはす/とうこれん)」、さらには「八重茶碗蓮(やえちゃわんばす)」、「仏足蓮(ぶっそくれん)」、「浄台蓮(じょうだいれん)」、「粉霞(ふんか)」、「黒谷白蓮(くろたにびゃくれん)」など、個性豊かな蓮の姿は見る者の心を自然と穏やかにしてくれます。
また、「真上から蓮の花を見たい」という参拝者の声に応え、2年前には通路が作られました。
是非、花開く時期に合わせて、極楽浄土の世界をお楽しみください。

そして、境内の一角には珍しい梅「蝋梅(ろうばい)」が咲くとのこと。
まるでロウ細工のような黄色い花を咲かせる梅で、その甘くて芳しい香りに誘われ、思わずお寺に入って来られる方も多いそうです。
蝋梅の見頃は1月下旬から2月中旬頃。街中ではめったにお目にかかれない蝋梅はカメラマンの間でも人気で、「これほど大きな蝋梅は見たことがない」と驚かれるほどです。
秋には紅葉が彩るなど、季節ごとにさまざまな表情を見せる境内で、思い思いの時を過ごしてみてはいかがでしょうか。

取材協力 : 大蓮寺
〒606-8353 京都府京都市左京区東山二条西入一筋目下ル457
電話番号 : (075)761-0077

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