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京都通

  • 2019/6/22

第347回 本因坊・本山寂光寺『天下人を支えた初代本因坊・算砂上人ゆかりの囲碁の聖地』

京都日蓮聖人門下十六本山の一角をなす大寺院なんどすえ

京都の観光名所として名高い岡崎・東山界隈のほど近くにある「本山寂光寺」。
山門に「碁道 本因坊 元祖之道場」と書かれた看板があるように、ここは「囲碁本因坊(ほんいんぼう)」のお寺として知られており、プロ棋士をはじめ、国内外から多くの囲碁愛好家が訪れます。

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囲碁は中国発祥といわれ、奈良時代以前に仏教とともに日本に伝来し、貴族や僧、公家、そして武家社会にも広まり、江戸時代には庶民も嗜むようになりました。
最近は"囲碁ガール"という言葉もあり、若い女性の競技人口も増えていますが、まだまだ囲碁は馴染みがなく、女性に限らずルールも知らないという方も多いかもしれません。

そんな中、囲碁界史上初めて二度の7大タイトル全ての独占を果たし、国民栄誉賞にも輝いた井山裕太(いやまゆうた)氏の偉業や、日本囲碁界で史上最年少となる10歳のプロ棋士・仲邑菫(なかむらすみれ)さんが誕生したニュースが話題となり、さらには囲碁の世界を描いた日本の人気漫画『ヒカルの碁』も世界中に翻訳された影響で、欧米での囲碁人口が増加するなど、近年、囲碁は大きな注目を集めています。

実は普段、私たちが何気なく使っている言葉の中には、「一目置く」「駄目(だめ)」「白黒付ける」「目論む」「布石」「下手を打つ」「死活問題」「八百長」「傍目八目(おかめはちもく)」など、囲碁を由来とする言葉が多くあります。
そう考えると、少し身近に感じていただけるのではないでしょうか。

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"囲碁の聖地"ともいわれる本山寂光寺の創建は、織田信長が京の都で天下の実権を握っていた時代、天正6年(1578年)に遡ります。

法華宗の僧・久遠院日淵(くおんいん にちえん)上人が京都御所西側の出水室町近衛町に久遠院(寂光寺)を建てたのが始まりで、その後、豊臣秀吉の寺町建設に伴って、京都御所南側の寺町通竹屋町(久遠院前町/くおんいんまえちょう)に移されました。
境内には久成坊、実教院、本因坊など七つの塔頭(たっちゅう)が築かれ、法華宗 京都日蓮聖人門下十六本山の一角をなす大寺院として繁栄しました。

しかし、宝永5年(1708年)に起こった京都三大大火の一つ「宝永の大火」によって、塔頭もろとも焼失。
同年に現在の地、東山仁王門西入に移転し、再建されました。
現在も広大な寺域を誇り、境内には本堂、客殿、庫裏、鐘楼堂、山門が建立され、歴代本因坊が眠る墓所もあります。

なお、本山寂光寺が元あった寺町通には、囲碁「本因坊」発祥の地の駒札と石の碁盤が設置されており、かつて寂光寺がそこにあったことを思い出せてくれます。

算砂上人は"近世囲碁の開祖"と言われてるんやてなぁ

囲碁の七大タイトルの一つに数えられる「本因坊戦」は、寂光寺の二代目住職・日海(にちかい)上人に由来しています。
初めは本山寂光寺内の塔頭・本因坊という小寺の住職でした。

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当時から囲碁の名手として名を馳せた日海上人は、織田信長に名人と称され、信長をはじめ、豊臣秀吉や徳川家康にも囲碁を指南し、囲碁を通じて仏教の神髄や天下人としてのあり方を教えられました。
特に家康は囲碁に熱中し、江戸幕府を開いたときに、信頼のおける日海上人も江戸へと呼び寄せました。

そこで、日海上人は本山寂光寺の住職を弟子に譲り、江戸へと渡ると「本因坊算砂(さんさ)」を名乗り、囲碁の家元「本因坊家」の初代となりました。
また、家康からは御城碁(おしろご/将軍の前で行う対局のこと)の管理や、全国の囲碁・将棋の総轄する江戸幕府の役職「碁所(ごどころ)」を任され、本因坊家は囲碁の家元四家(本因坊家・井上家・安井家・林家)の筆頭として栄えました。

ちなみにそれ以降も、算砂上人は江戸と京を行き来し、布教活動を続けられたそうです。
上流階級の者だけが嗜んでいた囲碁が庶民に広まったのは算砂上人の時代で、「近世囲碁の開祖」と呼ばれる所以でもあります。

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本因坊家は門弟によって代々世襲され、本因坊第2世以降は僧侶ではなく在家の方々でしたが、算砂上人の遺徳を偲んで、本因坊家を継ぐ者は、得度をして、袈裟をまとった僧侶姿が本因坊家の正装でした。
ですから正式な対局では僧侶の正装で碁を打っていたそうです。
本因坊家としては21世まで続きましたが、家元制が廃止された後はタイトル戦「本因坊戦」(毎日新聞社・日本棋院・関西棋院主催)としてその名は受け継がれています。

また、23歳2カ月という史上2番目の若さで本因坊のタイトルを獲得し、さらに5期連続もしくは通算10期を達成した者だけに与えられる「永世本因坊」を獲得した井山裕太氏は、「本因坊文裕(もんゆう)」という号を名乗っています。
号とは、本因坊戦タイトル保持者のみが使える呼び名で、本山寂光寺の第33世・大川日仰貫首(おおかわにちごうかんじゅ)が名付け親となっています。

文裕の「裕」は井山氏ご本人の名前から、「文」はご住職が本堂に祀られている文殊菩薩様の「文」より命名されたそうで、知恵を授ける文殊菩薩様にあやかって、囲碁の道を極めてほしいという願いが込められています。
実は、井山氏が生まれて初めて碁を教わった相手が祖父の鐡文さんで、そこにも「文」の字が使われていたこともあり、井山氏はその偶然に大変喜ばれたというエピソードが残っています。

貴重な寺宝を通して、囲碁の魅力に触れてみまへんか

寂光寺の所蔵品には算砂上人ゆかりの品々が多数あり、住職や副住職がいらっしゃれば詳しいお話を聞きながら、間近に拝見することができます(団体で来られる場合はご予約ください)。

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展示室には算砂上人の肖像画や愛用の碁盤、仏教的な精神を下地に囲碁の心得が書かれた「囲碁狂歌」など、貴重な寺宝が並んでいます。
中でも、上人が実際に使っていたという囲碁の道具は携帯仕様になっており、様々な所で碁を指南するために持ち運んだとされています。
碁石は通常、那智の黒石とハマグリの白石が使われますが、上人愛用の碁石は瀬戸物で大変珍しいものです。

また、「本山寂光寺誌」には「三コウ(サンコウ)」に関する話が記されています。
三コウとは囲碁においてほとんど起こりえない状況の一つで、お互いが順番に取り続け、半永久的に対局が終わらないことをいいます。
本能寺の変が起こる直前、算砂上人が信長の前で対局しているときに、この三コウが起こったとされ、「本能寺の三コウ」という言葉は不吉の前兆とされていました(諸説あります)。

そういう意味でも、天下人を支えた上人愛用の碁盤は様々な歴史的局面を見ていたのかもしれません。
また、算砂上人が正式な法要でお使いになられていた、碁石をモチーフにした白と黒の数珠も現存していますので、そこから遊び心のある粋な方だとも想像できます。

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客殿には、第67期本因坊戦(平成24年5月15・16日/山下敬吾本因坊、井山裕太九段 ※対局当時)の対局が行われた一室「歴代本因坊対局の間」(通称)があります。

大きな対局は全国の有名旅館やホテルで行われることが多く、対局が終わるとすべて片付けられますが、この部屋だけは当時の対局の一場面が、碁盤と共にそのまま保存されているため、参拝される囲碁ファンの方は大変感激されるそうです。

室内には本因坊家歴代と本因坊戦タイトル保持者の名を刻んだ、「本因坊盾」(優勝盾)が置かれています。
また、本堂「橘の間」にも初代算砂上人から井山裕太氏までの、本因坊のタイトルを継がれた全棋士の木札が掛けられています。

本山寂光寺では碁石をモチーフにした「囲碁上達御守」や算砂上人直筆の囲碁之狂歌が印刷された「囲碁上達扇子」を授与していただけるほか、「南無妙法蓮華経」を書いた御首題を授けていただけます(法華宗では御朱印ではなく、御首題になります)。

囲碁は先を読むので頭の体操としても、"人格向上"を目指す意味でも、幅広い年齢層の方におすすめです。
皆様もぜひ、本山寂光寺の歴史を通して、奥深い囲碁の世界に触れてみてはいかがでしょうか。

取材協力 : 顕本法華宗 本因坊・本山寂光寺
〒606-8352 京都府京都市左京区仁王門通東大路西入北門前町469
電話番号 : (075)771-6962
FAX番号 : (075)771-6962

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