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京都通

  • 2019/7/27

第348回 金地院『徳川家康を支えた名僧・金地院崇伝ゆかりの禅寺』

崇伝はんは多方面で活躍しはったキレ者なんどす

京都・東山に建つ臨済宗の巨刹・南禅寺。
その南禅寺の数ある塔頭の一つに「金地院」という立派なお寺があります。
大門をくぐると、弁天池の前に明智門が出迎えます。
これは、天正10年(1582年)に明智光秀が母の菩提のため、大徳寺に寄進した門で、明治元年(1868年)に金地院に移されました。

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金地院は応永年間(1394~1428年)、南禅寺68世住持・大業徳基(だいごうとっき)が、室町幕府4代将軍・足利義持(よしもち)の帰依を得て、北山の鷹ヶ峰に創建したのが始まりとされています。

その後、寺は荒廃しましたが、慶長10年(1605年)、37歳という異例の若さで南禅寺270世住持となった以心崇伝(いしんすうでん/金地院崇伝)が自坊として、南禅寺境内の現在地に移して復興・再建しました。
また、崇伝は応仁の乱など3度の大火で荒廃した南禅寺の伽藍の復興に尽力した名僧でもあります。

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一方、徳川家康の厚い信頼を得て、側近の1人として外交文書を担当し、幕政にも大きく関わりました。
朝廷の権限に制限を加える「禁中並公家諸法度」や全国の寺社を統括するための法制「武家諸法度」などの起草にあたり、さらには、それまで相国寺の鹿苑院(ろくおんいん)に置かれていた、禅宗寺院の統括機関である僧録司(そうろくし)が金地院に移されたことで、崇伝は確固たる地位を手にし、宗教界でも政界でも大いに活躍しました。

このことから崇伝は、「黒衣の宰相(こくいのさいしょう)」または「寺大名」といった異名で呼ばれています。
境内には崇伝を祀った開山堂が設けられ、後水尾天皇の勅額を掲げられています。

京都三大名席の一つ「八窓席」があるんやてなぁ

国の重要文化財に指定されている方丈にはご本尊の地蔵菩薩が祀られており、これは鎌倉時代の仏師・快慶によって造られたと伝わっています。
また、建物の正面に掲げられているのは、幕臣で剣豪の山岡鉄舟が書いた扁額。
そこには金地院という名称の由来ともなった「布金道場(ふきんどうじょう)」の文字が書かれています。

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将軍や貴人を招くための「上段富貴(ふき)の間」には狩野探幽(かのうたんゆう)・狩野尚信(かのうなおのぶ)兄弟による襖絵があります。
方丈奥には小堀遠州好みの三畳台目の小さなお茶室「八窓席(はっそうせき)」があり、大徳寺孤篷庵(こほうあん)、曼殊院のお茶室とともに、京都三名席の一つに数えられています。

創建当時はその名の通り8つの窓があり、その後、明治時代の改築で現在は6つになったのですが、室内はとても明るく、開放的な印象を受けます。
庭から入るのではなく、縁から入るにじり口は、外の土を持ち込まない配慮がされているほか、床の高い茶室に合わせた工夫が施されています。
身分制度を意識した造りが随所に見られるのも特徴となっています。

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また、書院には長谷川等伯の襖絵『猿猴捉月図(えんこうそくげつず)』や『老松』があることでも知られています。

『猿猴捉月図』は、一匹の手長猿が片手で枝をつかみ、もう片一方の手で水に映った月を取ろうとしている様子を描いたもので、教科書などで誰もが一度は目にしている有名な水墨画です。
そこには、「実体のないものを追いかけていると自分が溺れてしまう。だから、足元をしっかり見なさい」という禅の教えが込められています。

しかし、この絵を眺めていると、猿が無邪気に水中の月と戯れる姿に癒やされるばかりか、長くて繊細な毛並みや水面に伸ばした手先が今にも動き出すのではないかと、そんな錯覚さえ起こしてしまいます。

このほか、海北友松(かいほうゆうしょう)や雲谷等益(うんこくとうえき)ら、江戸時代初期に活躍した各派の絵が一堂に見られるのも金地院の魅力となっています。

徳川家の繁栄を願った雄大なお庭を訪ねてみまへんか

金地院最大の見どころといえるのが、方丈前に広がる枯山水庭園「鶴亀の庭」で、国の特別名勝に指定されています。
2000坪を誇るこの広大な庭は、崇伝が徳川家光を迎えたいという思いで、当代随一の茶人で、作庭奉行の小堀遠州に設計を依頼しました。

日本全国に遠州作とされる庭は数多くありますが、遠州作と断言できる庭はごくわずかしかありません。
金地院はその一つで、当時の設計図や日記、崇伝と遠州の書状が残っているため、はっきりとした由緒があります。
遠州が設計し、そして遠州の右腕ともいわれた"天下一の石組の名手"賢庭(けんてい)の指揮のもと、寛永9年(1632年)に完成しました。

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「鶴亀の庭」は徳川家の治世が長く続くことを願って名付けられた、まさに祝儀の庭で、禅寺にしては豪快で華やかな印象を受けます。
ちなみに、崇伝は家康から厚い信頼を寄せられていたため、金地院には全国の大名から名石の寄進が相次ぎ、有り余るほどだったそうです。

向かって右に鶴石、左に亀石が配置され、亀石の上には盆栽を思わせる柏槇(びゃくしん)の老木が植えられています。
中央には宝來連山(ほうらいれんざん)に見立てた三尊石と遥拝石(ようはいせき)が置かれ、手前の白砂は海、背後の刈り込みは深山幽谷(しんざんゆうこく/人がほとんど足を踏み入れない奥深い自然の地)を表しています。

また、開山堂の石橋へ続く大曲りの飛び石は、正方形に切られた石が一個おきに角度を変えて据えらえており、お庭のアクセントとなっています。
また、将軍が来られるお庭は決して枯れてはいけないということで、一体が常緑樹で覆われています。
ただ、このお庭が完成する前に崇伝は亡くなっており、ここに家光が訪れたという記録も残っていないそうです。

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さて、お庭の中央にある遥拝石は、3畳分はある大きな石で、これは背後にある東照宮、つまり家康の廟を拝むために置かれました。
金地院の境内に建つ東照宮は崇伝によって寛永5年(1628年)に造営され、ここには家康の遺髪と念持仏(持ち歩き用の仏像)が納められています。

東照宮は全国各地にありますが、家康の遺言によって建てられたのは久能山、日光、そして金地院の3カ所だけ。
東を正面に建てられており、やはり江戸および日光を見据えています。
京都で唯一の権現造の建物で、拝殿の天井には狩野探幽の筆による「鳴龍(なきりゅう)」が描かれています。

境内には桜や梅、睡蓮、アジサイ、ツツジ、萩、紅葉など一年を通して様々な木々や草花が彩り、味わい深い苔の風景も味わえます。
移ろいゆく季節を感じながら、散策をしてみてはいかがでしょうか。

取材協力 : 金地院
〒606-8435 京都府京都市左京区南禅寺福地町86-12
電話番号 : (075)771-3511
FAX番号 : (075)752-3520

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